愛と運命、25年の誤解?:『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』

映画『ベティー・ブルー』公開から25年周年ということで現在、デジタル・リマスター版による再上映が行われている。しかも「日本では見ることが困難だったオリジナル版」なんだそうだ。初公開当時、この映画は大きな話題となった。DVDがなかったあの時代、オレも公開されてしばらくしてからビデオで見て衝撃を受け、その後公開されたディレクターズ・カット版(1992年)もやはりビデオで見た。けれど考えてみれば劇場で見たことはこれまで一度もない。しかもどれがオリジナルのシーンでどれがディレクターズ・カット版のシーンかも忘れている。今回の“オリジナル”版がどう違うのか確認がてら劇場へ足を運んでみることにした。

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それにして・・・そもそも『ベティー・ブルー』ってタイトル自体がオリジナルじゃないんだよな(原題は『三十七度二分、朝』)。その上、変な副題までつけられてる。「愛と激情の日々」なんて噴きだしてしまうくらいに陳腐で安易な表現ではないか。初公開されたときにこんな副題ついてたっけ? なんかこの映画はいろいろと誤解されてるような気がしないでもない・・・そんなことを考えてる間に映画開始。

冒頭いきなりのセックス・シーン。蘇る記憶、いや目の前で再現される記憶。ベティのエロティックな肉体。厚い唇。尻の大きさと形。ゾルグのしまった筋肉。ふたりの体が濃厚に絡み合う。衝撃のひとつはこうした赤裸々なセックス描写にあったのだろう(その頃オレは十代か二十歳にやっと届いたくらいだったんだから)。また、こうしたあからさまなで頻繁なセックス描写の是非が各国で議論の対象になったり、日本上映の障害になったりもしたんだよなぁ。ちなみに、日本での上映では未だに性器部分にボカシがかかってます(不自然!)。

衝撃のもうひとつは映像の美しさ。この点はこの映画最大の魅力と言っていい。特に―舞台の詳細はわからないけれど―前半の南フランスのどこかであろうリゾート地と後半の内陸の田舎街。果てしなく続く海岸線にしても、なだらかに連なっていく丘陵地にしても日本にはない風景。その海と空の色、時に青く澄み渡り時に紫から真紅へとグラデーションを描く濃い色合いは大陸の空気が醸し出すものなんだろう。異文化へのあこがれをくすぐる。デジタル・リマスター版ということでその映像はさらに鮮明になっていたのかな? 異文化へのあこがれという観点では、食事のシーンもそうだ。カップではなくでっかいボウルに注がれるコーヒー。テキーラの奇妙な飲み方。そんなディテイルひとつひとつがなんか洒落てるように当時は感じたものだ。

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で、肝心の物語はどうなのか。気ままな日々を送る愛すべき登場人物たち。常識はずれな言動の痛快さや奇妙なめぐり合わせといったエピソード。だがしかし、そのユーモラスなエピソードとは対照的に崩壊していくベティの精神。こうしたおかしなエピソードを積み重ねることで悲劇がいっそう際立つ。後半の展開は痛々しい。陽気さと悲劇的結末とのギャップ。最大の衝撃はそこだろうな。

と、まあ、おぼろげだった記憶を反芻しながらも、それとは別にこの映画のテーマについて新たに考えさせられるものがあった。それは「愛と運命」である。
はっきり言って、今冷静に見るとベティはメンヘラそのもの。いわば病気だ。その彼女の抑制できない感情を「愛」とか「激情」と言ってしまうことにオレは強い違和感を覚える。また配給元なのか劇場なのか知らないけど、「愛を求めるすべての女性たちへ」っていう宣伝コピーにも、「う~ん?…」となってしまう。なぜか? つまり、これは究極的にはゾルグの物語にほかならないと思うから(ディレクターズ・カット版だとそれはとくに顕著)。
男は脳で考え女は子宮で考えるなんてよく言われる。一般的に男は女より理性的だ、とオレも思う。そんな理性に左右される生き物が不条理な「運命=愛」を受け入れられることができるだろうか、というテーマが隠されているんじゃないかな。ベティが感情的な言動をするのに対してゾルグは理性的常識的に振舞う。にもかかわらず、彼は全面的にベティを受け入れ、彼女を喜ばせたい一心で仕事を変え、車を買い、強盗までする。この点をゾルグの優しさや献身的愛の形ととる人もいるようだが、オレの見方はちょっと違う。彼はあたかもそれが与えられた運命であると受け取り全うしようとしているにすぎない。ベティという人格に向けられる愛の動機がオレにはどうしても見えてこない。「運命を受け入れる」ことと「愛を与える」ことは絶対的に違う。
結末で彼は精神を病んで廃人となったベティの命を奪う。はたしてこれがベティの求めた愛だったろうか。彼は刹那的な「幸せ(に見えるもの)」に酔っていただけなのではないだろうか。だって真実の愛を貫くならば、廃人になろうと一生彼女の世話を続けていくはずだろう。あるいは彼女の命を奪うと同時に自らの命も絶つのが本望ではないか。悲しみと失意に陥りながらも、彼がとった選択は再び小説を書き始め、平穏で理性的な日常へ帰って行くことであった。結局のところ彼は運命を受け入れはしたけれど、愛を与えることには失敗したのだ。そんな経験をした彼の後の生き方をむしろ見てみたい気がする。
25年を経た『ベティ・ブルー』。映像の美しさは色褪せてはなかったけれども、オレにとってその意味はかなり変わっていたのであった。