プリミティヴな歌の中にある狂気:植野隆司フォーク100@高円寺円盤

三月某日

植野隆司(テニスコーツ)の新作「植野フォーク100」の発売記念ライヴを見た。

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「植野フォーク100」は6本のカセットテープにタイトルそのまま100曲が収録されている。今回、そこに収録された全曲を三日間で演奏するらしく(結果的に未収録の1曲+カヴァー2曲の全103曲を演奏?)、オレが見たのはその最終日。テニスコーツは何度も見ているけれど、植野のソロを見るのは初めて。しかもフォークソングの弾き語りというので、いったいどんなライヴになるのかワクワクしながら出かけた。

おまけに…実は円盤でライヴを見るのも初めて(買い物に訪れたことはあるけど)。なので、ちょっとドキドキもしていた。あんな狭いスペースでライヴできんの? いや、ライヴは実際ちょこちょこ行われているので、できるに違いないだろうけど、そう思ってしまうほど狭い(普通のショップだからあたりまえ)。店内にはスツールと箱型の長椅子がいくつか置かれている。開演前はスカスカだったが、最終的には30人くらいが集まり狭い店内は混み合っていた。客の中にはさや(テニスコーツ)や池間由布子の姿があった。前日には柴田聡子も来ていたようだ。

さてそもそも、デジタル全盛のこの時代に敢えてカセットテープを選んだことにどんな意図があるのか? “日本のフォーク”というジャンルをパロディなのか? 曲も聞き方も流通の仕方も“フォーク”的にしたかった? あるいは媒体を変えることによって作品へのアプローチが異なるか実験してみた? そして実際それは作曲や録音に影響したのか? うーん、いろいろな点で謎が残る(笑)。

ライヴはまさしくフォークソングの弾き語り。歌とアコギによる演奏とおしゃべり、そして時々ダンスとモノマネ(笑)。曲調は、まさに哀愁漂うフォーク調のモノから勢いあるロケンロール、渋いブルーズから単調でミニマルなものまで様々。いつ始まっていつ終わったのかわからないダラダラした曲や尻切れトンボのように唐突に終わってしまう曲、意味不明の歌詞(造語?)。この場所で、この空間で、この客が醸し出すユルイ雰囲気に見合うユルい歌々が次々と繰り出されていく。植野の声はどちらかと言うと濁ったダミ声で最初は聞きづらかったけど、だんだんその荒い声に味わいを感じ癖になってくる。それらの合間に植野による曲解説があったり、近況報告があったり、単なるつぶやきがあったりも。おそらく(数えてないので正確ではないが)三十数曲が演奏された。

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植野自身が「すべて実話を元に作った」と言うように、そこに漂う(まさにユラユラ漂う感じ!)音と言葉と声からは手触り感と体温が伝わってくる。その親しみやすさはひとつの魅力ではあるけれど、それだけでは収まらないのが植野の才能。一見稚拙に思えるような曲の中に垣間見える狂気。ちょっぴりゾッとするような、心を引っかいて傷をつけていくような、耳に残る歌がいくつかあった(全部とは言わないけど:苦笑)。どこにでもある、誰もが体験する日常のひとコマをこうして独特の視点から眺めると「歌」になるんだなぁ。そして―植野のソロに限らずテニスコーツにも共通することだけど―このプリミティヴさ、何も装わないスタイルって、それを目指そうとしてもなかなかできるもんじゃないよね。それをサラっとやってしまう植野のスゴさに改めて感心。

90年代前半~中期にある種のトレンドとしてローファイと呼ばれた音楽あったよね。ルー・バーロウダイナソーJr./フォーク・インプロージョン)やガイデッド・バイ・ヴォイシズ、初期ペイヴメントとかさ。当時、彼らは大量の録音作品をやはりカセットテープでリリースしていたよね。それはカセットが手軽に録音&リリースできたってこともあるけど、その本質は録音方法にあるのではなくプリミティヴな歌をそのままの形で提示するってことだったと思うんだ。つまり、そこにはその場その時にしか生まれなかった衝動が詰め込まれていた。聞いているとその衝動が曲に収まり切らずにこぼれ出てくる感じあった。そしてやはり彼らの歌の中にも狂気がチラついてたよな。植野が今回の作品集をカセットテープでリリースしたことには同様の理由があるんじゃないかと邪推している。