無規定な自我との葛藤。もしレズビアンじゃなかったら…:『アデル、ブルーは熱い色』@早稲田松竹

八月某日

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2013年カンヌ映画祭パルムドール受賞作。受賞の時点で大きな話題となってたし、レア・セドゥも出てるし、これは必ず見なくては!と思って公開間もなくして見に行った。が、消化不良というか、よく理解できなかったので、もう一度見に行った。今回が二度目の鑑賞です。

二度見たことによって、なんとなくこの映画のテーマらしきものも見えた気がする。結論から言えば、アデルという女の子の成長と自立の物語なのかな? 同姓同士の恋愛はアデルが思春期を経て子供から大人に成長する過程のエピソードのひとつだけど、ポイントはそこじゃない。ありきたりな話を、同性愛や芸術家の恋人という設定と映像、例えばクローズアップの多用やら、手持ちカメラの撮影(ドキュメントっぽい)、そして濃厚なセックスシーン(7分間と無駄に長い!)とかで、“アート・フィルム”っぽくさせているだけだ、と気づいた。いや、あのセックスシーンにアートなんてあったか? むしろ低俗なポルノ・フィルムだったような…。

一度目に見たときは、レア・セドゥの美しい裸体(肌もキレイ! 神が創った芸術作品。これを見るだけでも映画に行く価値あり)をくまなく拝めてドキドキしたのは確か。でも、ポルノ雑誌のような扇情的ポーズは性的興奮を誘うかと思いきや、わざとらしくて二度目に見たときは逆にシラケてた。「映画史上最高に美しい官能的ラブシーン」って惹句は大げさ。実際、あのセックスシーンは賛否両論らしい。レズビアンからすると、まったくリアルじゃないんだとか(じゃあ、リアルなレズビアン・セックスってどんなの?)。

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では、この映画がまったくつまらないかというと、そんなここともない。主人公アデルの心の揺れ動きと成長、恋に堕ちたときの情熱と寂しさが鮮烈に描かれている。登場人物たちの食事風景、学校での授業の様子、友人同士のたわいない会話、デモに参加する街の人と街並、ダンスの肉体的昂揚、公園のやわらかい陽射。いちいち挙げたらきりがないけど、そうしたひとつひとつを丁寧にじっくりと見せる。

この映画はこれら日常のありきたりな出来事の集合で成り立っているとも言える。「神は細部に宿る」とも言うし…。特に食事のシーンとダンスのシーンは何度も繰り返される。食事のシーンではアデルの下品な食べ方が印象的。食事とダンスシーンの多用は性的イマジネーションを喚起させる。監督がそれを狙って撮ったのだろうか? ただ、「クローズアップで撮ると、すごく感情に訴える映像になるとみんな考えている。これは、血を使ったりして印象的な場面をつくり出そうとするのと同じだよ。すごくぞんざいな方法だと思う」(byウッディ・アレン)って意見もあるけどな…。

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ちなみに…フランス映画見ていつも思うのは、必ず日常会話に哲学とか思想の話題が出てくるけど、あれ普通なの? この映画にもどころどころで哲学を語るシーンがある(サルトルが云々)んだけど、アデルは哲学のことはよくわからないし興味もなさそうで、そこがフランスの知識階級(エマ)と労働者階級(アデル)の違いを表しているのかな。あと、男のファッションでストール着用率の高いこと。これがフランスのシャレオツですか? チャラくてぜんぜんカッコいいと思わないし、どいつもこいつもストールで、そうなるともう逆にオシャレじゃないのでは?と思ってしまう。もうひとつオマケで…フランス映画のノーブラ率の高いこと。二度目の『アデル~』は、やはりフランス映画の『グッバイ・ファースト・ラヴ』との同時上映だったんだけど、あの映画の主人公の女の子も終始ノーブラ乳首ポッチリ状態だった。フランス女は乳首浮き出てても気にしないんですか? フランスの男は学校や会社のかわいい子が乳首ポッチリさせていてもチラチラ見ないんですか? そこに目が行く日本の男は気持ち悪いですか?

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えーと、『アデル~』に話を戻す…。人は明確に規定できない自我に日々苦労して生きている。それを強く意識することもあれば、まったく気にしないこともある。それはぜんぜん特別じゃなくて誰しも経験することだが、同性愛というマイノリティに主人公を設定することで「不安定な自我」をより分かりやすく示そうとしたのかな。もし、この映画にレズビアン同士の恋のエピソードがなかったらどうだったろう? それでもオレは面白かったと思うし、むしろそうした方が変なバイアスがかからなくて良かったんじゃないかとさえ思う(そうすると、なおさらあのセックスシーンはいらないよなぁ…)。だから当然、ステレオタイプの行動や結論が導かれることはない。説明的なシーンもいっさいない。そこはいいなと思った。ただ、ラストシーンでアデルはエマの個展会場を出てひとり歩きだす。あれは青春との訣別であり、依存からの脱却、心の成長を何気なくほのめかしてるようには見える。アデルは無規定な自我とのつき合い方を学んだけれど、決して自我を切り離すことはできない。恋人とは違って自分とのつき合いは一生続いていくのだから。

と、ここまで書いてウィキで『アデル~』を調べてみたら、映画のストーリーはオリジナルじゃなくて原作(グラフィク・ノベル。グラフィク・ノベルって何?)があるんだね。な~んだ。ならば、原作を読んでみないと、この映画の本質はよくわからんか。