市川由衣のピンクの乳首:「海を感じる時」@キネカ大森

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一月某日

 

「元グラビアアイドルの大胆な濡れ場」という惹句に誘われるままスケベ心丸出しで見に行った。「○○初の本格的濡れ場」、「体当たりの演技」、「過激なベッドシーン」、「濃厚なカラミ」…毎度使われる宣伝文句。でも予告編を見て直感的に面白そうだ(≒エロい)と思った。市川由衣のことはよく知らない。元グラビアアイドルということはおろか、この映画の宣伝ではじめて名を知ったくらいである。

なるほど惹句にたがわず、彼女の肢体としぐさ(それが演技の範疇なのかもともとの個性としてあるのかはわからない)は官能的だった。胸元の鎖骨が浮き出ているあたりから形のいい胸とピンクの小さめな乳首。華奢な上半身に対してやや太目の足。服を脱ぐシーンが多いのだが、その脱ぎ方は決して挑発的でなく、むしろたどたどしく無造作。そんなさりげなさが逆にリアルでそそられる。一方、女の視点側からすれば池松壮亮のぶっきらぼうな態度や暴力的なセックス(今はやりの「壁ドン」?)に興奮したりするのかな。

映画の主題はそこではないのだろうけど、実はかなりこだわって撮ったのではないかと推測する。安藤尋監督はピンク映画出身でこれまでにエロDVD作品もいくつか残している。女の体やしぐさを官能的(それはつまり効果的でもある)に見せる撮り方を心得ていないはずはない。少なくともオレはその辺ばかりに集中して見ていた。と、これらの濡れ場を見られただけで、ほぼ目的を達成。なので以下は余談のようなもの…。

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監督の名を知ったのは大友良英(過去記事で何度も取り上げているようにオレは長年の大友ファン)がきっかけだ。安藤作品の劇伴の多くを大友さんが手がけている。出世作『blue』もそうだった。サントラも持っている。以前から気になっていた。なのに今回はじめて見る安藤作品の音楽は皮肉にも大友さんではない。それどころか劇中で音楽はほとんど流れない。唯一流れた音楽は喫茶店のBGMとして使われている「まちぶせ」(石川ひとみではなくて三木聖子版)と、死んだ父親が実際に弾くピアノの曲のみ。

最近の映画は音楽に頼りすぎていると普段から感じている。シーンの意味合いや登場人物の感情を演技や映像表現だけで完結できないから、安易に音楽の力で補う。もし映像そのものに力さえあれば音楽なんて邪魔なのにな。その点、この映画は劇伴が最少にとどめられてるのが潔い。だからと言って映像や演技が必ずしも素晴らしいってことにはならないけど…。

 

原作は1978年に中沢けいによって書かれた小説「海を感じる時」。小説についてもまったく知らなかった。「海を感じる時」は―

70年代を舞台に描かれる中沢けいの小説「海を感じる時」。1978年に著者が18歳の時に応募し第21回群像新人賞を受賞、当時は現役女子高生が書いたことに、選評者の一人である吉行淳之介氏が「18歳の作者が、感傷に流されず、背伸びもせず、冷静に対象を眺める力をもっているのは、その年齢とおもい合わせると、大したことなのである。また、その少女の描く18歳の子宮感覚は、清潔で新鮮であり、そういう表現が作品に登場したということは文学上の事件といえる」と評した。またスキャンダラスでセンセーショナルな文学として一躍世間の話題を呼び、ベストセラーとなって凄まじい反響を巻き起こした。一人の少女から大人の女性へと成長していく繊細な内面を精緻な描写で抉り、女と男、家族とのつながりを豊かな感性で描き、今もなお普遍的な作品として高く評価されている。

<公式サイトから引用>

 という作品だそうだ。

この手の小説(自意識系とオレは勝手に呼んでいるのだが)の映画化って、良し悪しは別として環境・背景が十分に描かれないことが多い。この映画もまさにそうであった。映画の中に上で言うような「18歳の子宮感覚」なんて投影されてたかなぁ?

それよりも何よりも、恵美子にとって洋ではなくてならない理由はなんなのか終始疑問に感じながら見た。彼女があそこまで洋に一途になれる理由って何? 彼女を必要としてくれるのが洋だけだったから? そんなはずあるまい。いくら親からの愛情が薄かったとしても、日常ってそれだけじゃない。心の喪失感を埋めるのは仕事だったり趣味だったり、学生なら友人や部活とかがあるじゃん? 学校や友達や近所の親戚の大人とかもいて、世界はそこまで閉塞しないもんだ。また、あの容貌と若さなら、他にも言い寄ってくる男はいくらでもいそうなもんだ。一方、洋の内面も最後まで掴めなかったよ。洋は「女の体に興味があった。君じゃなくてもよかった」と言う。あんなにもソソる恵美子のカラダとしぐさを洋(男子高校生!)が拒否する理由がわからん。

で、ふと思ったのは、原作の主人公は普通なら男に相手にされないようなブサイクな女なんではなかろうか。もしそうだとするなら、すべて合点がいく。恵美子が執拗に洋にすがることも、洋が恵美子をぞんざいに扱うことも…。

あと、映画は恵美子と洋の関係を中心に描いているけど、この物語は恵美子と母親との関係がそれと同じくらい重要なテーマなんじゃないかとも思った。原作がその辺をどう描いているのか気になる。

 

そんなことを考えながら公式サイトをあらためて見てみると、以下の監督インタビューを見つけた。

男というものは、どこか観念で生きています。簡単に言えば、これは観念が身体に「負ける」物語。それでも、女も、男も、最終的な決着を見るまでは、ことばに頼らざるをえない。そのことばが、男の場合、どこか観念に寄り添っている。女のことばはもう少し身体的なのでしょう。それが、女と男のある種の「対決」 を明確にしていったと思います。これは「静かな劇」ではなく、日常のなかにある「女と男の格闘」。そのことが、ことばを通して明快に表現されている脚本でした。そこでは、女のことばと、男のことばとが、明確にぶつかりあっていました。

<公式サイトから引用>

f:id:curio-cat:20150202193537j:plainふむ。一般的男が皆そうなのかはわからないが、自分に照らして見れば確かに思い当たる節はある。洋(=男という生き物)は単なる無感情のクズ人間というだけでは説明のつかない、ねじれたコンプレックスを抱えているのかもしれない。池松はそのあたりを抑えた演技で巧みに表していたとも言える。

そして上の監督の言葉にある「身体」を「情念」とおきかえてもよさそう。恵美子のすべての行動―洋に身も心も全て差し出したことも、やがて洋から心が離れていくことも、見知らぬ男と情事を持ったことも―が観念と対照的な情念に基づいているとも言える。

 

いずれにしても監督が何を撮りたかったのか、焦点がボヤけていてオレにはどうもはっきり見えない。市川由衣の魅力ばかりが印象に残る。でも、それで十分だと思う。


9/13(土)公開『海を感じる時』予告編 - YouTube

 

追記:

映画で腑に落ちない点が多々あったので原作を読んでみた。すると予想したとおり、原作の主人公はブスとまでは言わないが、決して市川由衣のようなアイドル級容姿には描かれていない。女性性の最も身近な対象である母親との関係にも大きなウェイトが置かれている。恋人、洋は少女に芽生えた女性性を喚起させる脇役でしかない。原作は「男と女の物語」ではなさそうだ。むしろ、少女が女へと成長していく中で芽生える女性性について深く見つめた作品である。そう、確かに吉行淳之介が評したように「18歳の作者が、感傷に流されず、背伸びもせず、冷静に対象を眺める力をもっているのは、その年齢とおもい合わせると、大したことなのである。また、その少女の描18歳の子宮感覚は、清潔で新鮮で…」あったし、読み応えがあった。

映画は「海を感じる時」というタイトルがついているけど、中沢けいのデビュー作「海を感じる時」とその続編的長編小説「水平線上にて」をミックスしたような物語になっていることにも気づいた。「水平線上にて」が続編的と言ったけれど、それぞれは異なったテーマを持つから、それらを強引にミックスしたことによって中心的テーマを完全に見失ってしまったように思う。原作「海を感じる時」で表現された新鮮な“感覚”に絞って映像化した方が面白い作品に仕上がったんじゃないか、と個人的に強く思う。