2012年の原始とリアル:テニスコーツ

先日、とあるライヴが墨田川のほとりにある牛嶋神社で人知れずひっそりと開かれた。「人知れず」などと言っては演奏者に対して失礼だけど、それは彼らの才能とその日の演奏の素晴らしさのわりに訪れた客のが少なかったことに対する皮肉にすぎない。その演奏会とは大友良英テニスコーツの共演である。とても素敵で楽しい時間と空間であった。

 

会場に着くと演奏はすでにはじまっていた。公園の一角にある神社の境内。人だかりにまぎれて、さや、植野、大友さんが練り歩きながら演奏している。冒頭のこの型破りな演出(って本人たちが演出を意図してるわけじゃないだろうけど)からしてこの日のライヴの混沌さははじまっていた。決して大きくない音量、いやむしろ控えめなほどかすかなアコースティック・ギターとピアニカの音。日も次第にくれてきて涼しい風も吹いてきた。風は隅田川の匂いも運んでくる。そんな風に乗って音がこっちへゆらゆらあっちへゆらゆらとたゆたう。三人は歩きまわり、時に近づいたり時に離れたり。客は彼らを追いかけて間近で聞くもよし。遠くで聞き耳を立ててもよし。演奏者どうしの距離や位置、自分の位置によってもちろん響き方は千差万別。オレもその音の微妙な響きの変化をしばし楽しむ。

 

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演奏しながらひとしきり境内を練り歩いたあと、今度はステージに見立てた神楽殿に上がって演奏。ここでもほぼ即興に近い演奏だ。おそらくさやが曲をリードしながらその“ノリ”を拾うように植野と大友が伴奏するといった感じ。さらに、さやのいい意味での行き当たりばったりの歌や演奏にドキドキしたりも。

 

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夏のはじまりの昼の余熱が黄昏に冷めていく。神楽殿は照明で照らされているものの、境内は暮れていく藍色の空のもと客どうしの顔はぼんやりとわかるくらいの薄暗さ。なんとゆるやかで気持ちのいい音、刺激、空気、時間だろう。そうこうするうちにさやがふたたび神楽殿から境内に下りて来て会場を練り歩きだす。リズムに合わせてとびはねていたさやが客の肩に手を乗せて電車ごっこのように人の列を作り出した。その列がひとつふたつみっつと増え、やがて列どうしがつながって大きな輪になる。なんだこりゃ、まるでフォークダンスじゃないか。最初は恥ずかしがって傍観していたオレだが、同じく境内に下りてきた大友さんが「加わりな、加わりな」と言って背中を押すので渋々輪に加わった。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なりゃ踊らにゃ損。輪に加わったら、お、意外に楽しいぞ。と、最後はほとんど全員が参加してフォークダンス大会のような盆踊りのような、まったく予想もつかない形でライヴは終了した。

 

大友さんが以前からテニスコーツとコラボしていたので彼らのことは知っていたし、何かのライヴで共演しているのを聞いたこともあるはずだが、今回あらためてテニスコーツの魅力を実感したよ。それは―ライヴのあとに催されたトーク・セッションで大友さんも述べていたことなんだけど―飾り気がないありのままの音なんだろうな。説明するのがちょっと難しいんだけど・・・。音楽家に限らずアーティストなら誰しも自分達をこう見せたいとか、自分達のやっていることの意味はこうだとかを示したい、示そうとするもんだ。でもテニスコーツの演奏ってそういうのをまったく感じさせないんだよね。無垢というか無欲というか野心がないというか・・・。いや、そうした言葉でさえ彼らを形容するには飾って聞こえるほど、それは予定調和とはほど遠いむきだしで原始的なんだ。そんな彼らの出す音はオレにとってたまらなくリアルに響く。なんつーか、生の音であり生活の音であり身の丈の音。住んでる街の風景、匂い、そしてノイズに共鳴する音。システム化された大量生産&大量消費メディアや大規模フェスやコンサートでは決して得られない realityとintimacyとpremitiveが彼らにはあるんだよ(かと言って、マス・エンターテイメントを否定してるわけじゃないよ)。だから心の中にスーッと染みこんでくるじゃないかな。

今回のライヴで完全にテニスコーツに魅了された。彼らの活動は今後も追いかけてくぜ。彼らとパステルズ、ハプナ、テープ、ジャド・フェア等々との関係など気になることもまだまだあるしな。

 

オマケでこの素敵な動画を貼っとく。これを見ればオレの言わんとする「原始とリアル」ってのがなんとなくわかってもらえるかも?