この深みまで降りて来い:『捧げる 灰野敬二の世界』

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この一年のオレの音楽生活で最も印象に残ったのはやはり灰野敬二の存在だった。年初にオーレン・アンバーチ+ジム・オルークによるトリオを体験し、その後ドキュメント映画公開前夜祭イヴェントで新生不失者メンバーは亀川千代Ryosuke Kiyasuを体験東日本大震災復興支援イヴェント、FREEDOMMUNE 0ZEROへの参加と圧倒的なパフォーマンス。先日は奇しくも六本木スパーデラックス十周年記念として不失者のワンマン・ライヴが同会場で開催されたのだった(まことに残念ながらオレは仕事で行けず)。

ライヴ以外にも灰野さんの活躍は目立っていたなぁ。まずは灰野さんの姿を追ったドキュメント映画『ドキュメント 灰野敬二』の公開。謎に包まれた知られざるカリスマの姿を追ったこの映画はファンならずとも灰野敬二の世界に触れる格好の機会となったはず。また、米『Spin』誌が発表した「史上最も偉大なギタリスト100」に日本人としては唯一灰野さんが選出され、英『Wire』誌の年間ベスト・アルバム20でも不失者のアルバム『まぶしい いたずらな祈り』がランクインするなど、メディアでも灰野さんの活動に注目が集まった年だったように思う。

この注目の高まりは単なる偶然かもしれないが、彼のユニークさ、偉大さは大袈裟じゃなく人間国宝ものだとさえ個人的には思っている。ただ才能の突出ぶりゆえに世間の多くの人はその素晴らしさに“まだ”気づいていない(おそらく灰野さんが正当に評価されるのは10年、いや20年くらい後になるのではかろうか)。実際、灰野さんは今、これまで以上にノリに乗っているんじゃないかな。もしこの言い方が軽いと言うなら、これまでになく充実してると言ってもよい。そんな灰野さんも今年で還暦を迎えたそうな。なんという若さとエネルギーか!!

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さて…前述した『ドキュメント 灰野敬二』はファン垂涎の貴重な記録となった。そして、それを補完するかのように、なんと灰野さんの本『捧げる 灰野敬二の世界』までが刊行されたのである。というわけで、遅ればせながらこの本を紹介しよう。

まず、この本の何が素晴らしいかって、灰野敬二の完全ディスコグラフィを掲載してるってこと。それだけでオレは瞬時に購入を決めた。不失者ファン(自称)のオレでさえ作品がいったいどれだけリリースされているのか正確に把握しきれていない。ソロや短期的プロジェクトなどは言わずもがな(ちょっとだけ言い訳させてもらうなら、灰野敬二の音楽はライヴこそが真髄で録音作品は…まぁ、なんと言うかあくまでもライヴの追体験でしかないと思っているから、それほど熱心に収集してこなかったということもある)。それは何もオレだけでなく他の多くのファンも同様なんじゃないかな。例えば、オレと同様に灰野敬二が好きだという友人とこんな会話をしたりする。「いや~不失者のライヴはカッコいいけど、家じゃ聴かないよなー」「あ~、オレもめったに聞かないねー。せっかくアルバム買っても一回聴いて終わりだなー」。

というわけで、全326ページ中約100ページ近くを占めるこの部分だけでも資料的価値が高い。灰野敬二の作品はソロ、ユニット、グループ、コラボレーションなど含めて国内外のレーベルから実に170以上もの作品がリリースされている。本書ではその膨大な作品すべてをプロジェクト別、年代順に網羅しているだけでなく解説まで付していのだった(解説の福島恵一氏と編集者に敬意を表する)。

とりあえずオレは本を脇に携えながらディスコグラフィに従って、所有しているアルバム(主に不失者だが)を聞き返してその変遷やら進化やら、また逆に普遍性なんかを確認してみたりした。上に述べたとおり、自宅のオーディオで不失者および灰野敬二を聞くのは久しぶりだったのだが、一度聞いてほったらかしていた録音作品をこの再び聞き返す絶好の機会を得たわけだ。

 

本書にはその他に三篇の対談と一篇のエッセイ(?)が収録されている。三者による対談は複数の視点から灰野敬二を多角的にあぶりだそうという試みが窺える…のだが、誰と何を話そうが結局は灰野さんの「オレ節」になっているところがおかしい(笑)。

そんな中、個人的な読み所としては、オルークとの対談で彼の活動が海外でどのように評価されていったかや、実際に海外で行われたライヴや録音のエピソード等。あとはレッド・ツェッペリンの評価をめぐる二人の齟齬が興味深い。灰野さんが彼らの音楽の衝動性を主張するのに対して、オルークは録音の技術的な完成度を主張。その視点の違いから好きなアルバムも灰野さんが『Ⅰ』を挙げるのに対して、オルークは『聖なる館』を挙げている(ふーん、なるほどね。ツェッペリンも聞き返してみるかー)。

後飯塚寮氏(元舞踏家で現在は東京理科大学教授で生命・生物科学研究者)との対談でもやはり、初期の灰野さんの活動―主に70年代後半から80年代初頭にかけて―の思い出話が一番おもしろいな。それに対して思想や観念的なことが語られる部分は、オレの頭が悪すぎるせいか、何度読んでもよく理解できないし、正直つまらん。

こう言うと身も蓋もなさそうだが、結局、ドキュメンタリー映画を見てもこの本を読んでも、灰野敬二を頭で理解することなどできそうにない。もちろん、部分や側面を見ることはできた。が、それでもやはり彼の全体像というか本質的な核を把握することはできない。それは最初から自明なこと。だって活字で書かれた文章そのものが言語的、理論的方法によってなされるのに対して、彼の音楽は頭で整理して答えが得られるような音楽とは次元が違う。全身を投げ打って感じるしかない。でも、彼は近づくことを拒否しないよ。むしろ「この深みまで降りて来い」と手招いている。それが彼の言う「信仰」なのだろう。

ただし……対談とエッセイの他に灰野さん自身による前書きと後書きがある。前書きの中で灰野さんは次のように言う。

 

僕は表現の場においては非日常をひっぱりだす。非日常になっちゃうのと、非日常を摑んでここに引きずり出すのとは違うからね。……たしかに、非日常はあるんだよ。日を浴びているのが日常だったら、夜はそのとき非日常なわけじゃない? 現 前してないわけだから。僕はそれを意識して、昼間であっても、聴くひとが夜を感じられる音楽をできる自負がある。両方あるでしょう、ってやっぱりいいたい んだよ。ひとは昼を見ていると、夜があるのに昼が正義だと思ってしまう。そして、夜になると、夜が正義だと思う。ここが昼なら、地球の裏側は必ず夜なわけ だよね。僕はそれを、表裏一体として、見せるのが表現の使命だと思っている。(本書より引用)

 

そう言えば映画の中でも彼が音へ向かう姿のエピソードのひとつとして「表」と「裏」の話が語られていたっけ。「音の響きには音が響いていない部分が含まれている」と。その発言と合わせて、確かにこの言葉が灰野さんの表現の本質を言い表してるかもね。