2014新春初笑い―後編:末廣亭ニ之席夜の部

前編に続いて後編では新宿末廣亭ニ之席夜の部で印象に残った高座を紹介していく(ただし、途中入場したため早い時間に出演した一力、時松、三之助、左橋は見逃した)。以下読めば分かるとおり、ベテラン、名人がズラリ揃ったまさにオールスター寄席の観。個人的にも好きな噺家が多く、好きなネタがいくつもかかったことに大満足でした。

 

小満ん「時そば:小満んがもう好きで大好きで。今回、小三治と共に小満ん目当てに聞きに来たと言ってもよい。彼は噺家からも憧れられる存在だそうだが、頷ける。威勢の良さ、緩急の巧みさ、渋い声、粋な語り口。まさに当時の江戸っ子が目の前に現れて喋っているよう。ウットリしてしまう。こうした魅力が最も活かされている噺のひとつがこの「時そば」。このネタ演らせたら現役噺家の中では小満んの右に出る者はいないんじゃない? 落語はよく「想像力で聞く」って言うけど、小満んの「時そば」は想像“力”も必要ないほど自然でリアル。冬の江戸の街、冷え込んだ晩、路地裏に吹く北風、熱いそばの汁から立ち上る湯気、それを挟んで交わされる客とそば屋のオヤジとの会話(かけひき)。薄く切った竹輪麩が夜風にユラユラ揺れる様なんて実際には起こり得ないかもしれないけど、目の前に浮かび上がるもんな。おまけに流れが早くて噺が引き締まっていて、まさに完璧!! 前回書いたように猿真似しくじり噺時そば」は、噺そのものも大好き。滑稽さだけでなく、江戸っ子の“粋な遊びがカッコいい。日本にこういうユーモアがあるってことを誇らしくさえ感じる。その上こうして小満んの噺が生が聞けるなんて!! も~、正直今回はこれだけで十分ってほどの名演。

動画あったから貼っておくよ。何度聞いてもウットリするぜ。

 

さん喬「長短」:さん喬の特徴はひと言で言うとソフト。品があってしなやかでゆったりしている。その特徴を活かした噺のひとつがこれだろうな。元来がせっかちな江戸っ子言葉、江戸落語にふだんから馴染んでるから、友人、長さんのまどろっこしさが逆に新鮮。そのギャップのおもしろさは言うまでもなく、サゲもきれい。


権太楼「町内の若い衆」:好きな猿真似しくじり噺がここでも。権太楼の得意ネタのひとつでもある。もう何度も聞いてる(ちなみにマクラは前編―鈴本演藝場の高座と一句違わず)。過去の記事にあるので詳しくは書かないが、権太楼バージョンは馬鹿嫁が発する言葉「町内の若い衆が寄ってたかって…」が、夫の叱言を受けて言ったのか、本気で言ったのかわからないまま落ちるという、二重の意味を持つ仕掛けになっていると思うんだよね。

雲助「庭蟹」:世の中には洒落の通じないヤツってのがいるもんだ。洒落のわからない者に洒落を教えることがいかに難しいか。わからないことにイライラしてくる、客をそういう気持ちにさせることができればこの噺は成功。「逃げ噺(高座の時間調整用のネタ)」らしいけど、好きだなぁ、こうした駄洒落噺。豆知識…雲助は馬生の弟子で白酒、馬石の師匠。

金馬「按摩の炬燵:落語家歴なんと73年!! 落語界最古参。国宝だね。膝の調子が思わしくないせいで最近は釈台使用が常だが、師匠元気で何より。この噺は初めて聞く。他の噺家がやらないネタが多いのもやっぱり金馬ならでは? ネタも珍しいけど藝も独特。本来の藝風なのか、歳の功によるものかわからないが、なんっつーか、喋りに気張ったところがなく大らかでホンワカしている。「按摩の炬燵」にピッタリ。

喬太郎「夫婦に乾杯」:このネタを聞くのも何度目か。過去の記事はこちら。常々創作はむずかしいなぁ、苦手なんだよねぁ、と思っているオレ。そんなオレがなかなか良くできただ、とは思うんだけど・・・それほどおかしさは感じない。おかしいのはむしろ登場人物のキャラ作り。若妻の「スパイじゃないぞ♡」って台詞が大受けして、その客の反応に喬太郎が「こんな藝で拍手もらっても…」とボソっとつぶやいたところが一番おかしかった、という皮肉。

一朝「看板のピン」:この噺も猿真似しくじり噺です。一朝版は初めて聞くけど、一朝らしい折り目正しさ、磨かれた江戸言葉で隠居親分を粋でいなせに演じる。一朝は一之輔の師匠。

小三治厩火事:いよいよ真打登場。誰も声を大にして言わないだろうからあえて言うよ。前編でもちょっと触れたけど、はっきり言って最近の小三治の衰えは否めない。若い頃の録音、全盛期と聞き比べれば如実。当時あったキレはもうない。この日、「昼に出演した池袋演藝場での出来がかんばしくなかった」と本人も認めていた。同じようにここ末廣亭の高座も決してよくなかった。まず、マクラ。最初は天候の話で無難に進んでいたけれど、いつしか健康と病気の話に変わっちゃって、「またか」とやや辟易。それと、言葉、単語に度々詰まる。記憶力が衰えてるんだろうな。もう74歳だから仕方ない。ただ、マクラではご愛嬌で済ませられるとしても、ネタ本編でそれがあってはどうもマズイ。聞いててヒヤヒヤするから噺に集中できない。ましてや藝に酔うどころではない。期待が大きいだけに失望も大きい。だから前編でも言ったように必ずしもトリでなくて良いし、むしろトリから退いて気楽に話してもらった方がいいとオレは思う。とは言え…それによって彼がこれまでに培ってきた藝の深み、場の空気を掴む力が損なわれるわけではない。ご存知の通り小三治は高座に上がるまでその日にかけるネタを決めていない。「今日はこれかあれを演ろう。だから予め稽古しておこう」なんてことをしないのだ。それでこれだけの噺を聞かせるのだから依然驚嘆に値する。ま、日によって出来、不出来があるってのも寄席のおもしろさってことで…。


その他、小袁治「家見舞」/扇遊「手紙無筆」

 

以上、前・後編に渡ってお届けした新春初笑い。今年もバシバシ寄席に通うぜー。