いかなる権威にも囚われない:『CRASS:ゼア・イズ・ノー・オーソリティ・バット・ユアセルフ』@新宿K’sシネマ

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五月某日

「どんな音楽が好き?」って聞かれた時、どう答えていいかわからない。「説明できないから」と切り捨てたら会話が続かない(無理に続ける必要がないって声もあるだろうけど…)し、かと言って「こんな音楽です」とバカ正直にアーティストの名前を挙げたところで、よっぽどの音楽ヲタ、しかも地下音楽とか聞いている人くらいにしか、そうした名前はピンとこない、どころかかすりもしない。いずれにしても会話は続かないので仕方なく当たらずとも遠くない言葉を選んで「パンク・ミュージックっす」とか答えてみる。すると今度は「「はいはい、パンク・ミュージックでしょ、知ってます知ってます、わかりますわかりますとも。ピストルズにクラッシュですね? あ、ラモーンズとかストゥージーズとかUSの方ですか? UKじゃなく?」的に返してくるので、「はぁ…まぁ…そんなとこです」と適当に流すけれど、心の中では「いや、そういうのは決して嫌いじゃないないけど、好きな音楽は必ずしもそれじゃなくって…。そもそもUKとかUSとか関係ねぇし…」とツッコミを入れている(苦笑)。にもかかわらず、あえて「パンク」と言うのは、その言葉が自分にとって一番しっくりくるからなんだろうな。オレにとってのパンクは音楽のジャンルやスタイルではなく姿勢や手法のことを言ってるんだけどなぁ。

かつて一世を風靡したイングランドのアナーコ・パンク・バンド、CRASS。
“ダイヤルハウス”と呼ばれる家で自給自足の集団生活を送り、自身のレコードレーベル「CRASS RECORDS」を立ち上げ、DIY精神の基礎を確立した彼ら。
妥協のない率直な表現で政治的主張を音楽で表現する彼らはまさに時代の風雲児であり、その人気の一方で痛烈な批判を受けた。しかし、彼らは純粋に自分たちの生活を保ちたかっただけだったのだー。
当時の貴重な映像、彼らの楽曲を織り交ぜつつ、現在もダイヤルハウスで暮らす彼らの様子を映し出したこのドキュメンタリーは、観る者に今日の経済成長のパラダイム、消費中心主義世界への疑問を抱かせる。
彼らは言う。疑問を持ったら主張すべきだ。何故なら、自分を支配できるのは自分だけなのだから、と。

( 映画公式ウェブサイトの紹介文を引用)

ピストルズにしてもクラッシュにしても、社会風刺、皮肉、またそれらを象徴するようなファッションのカッコ良さがある。若い頃はそのカッコ良さに憧れたけど、時代が流れ歳を取って当時を振り返ってみると、パンクのオリジネイターと呼ばれる彼らでさえありきたりなロック神話の踏襲で、究極的にはショウビジネスの一端を担ったに過ぎなかった。彼らのパンクなんて所詮ファッションだったのだと感じたりもする。

クラスのことはピストルズやクラッシュよりだいぶ後、パンクの熱はとうに冷めた頃になってから知った。彼らは当時もてはやされたパンク・バンド達とは一線を画していたし、頑なな非商業主義と独立精神ゆえにレコードもあまり流通してなかったんじゃないかな。特に日本では。日本の商業音楽誌で彼らの記事を読んだ記憶もほとんどない。でも、彼らこそ真のパンク精神を、アナキズムを実践したバンドだった。第一に形式(スタイル)に囚われない。第二に自分(達)でやる=DIY。第三に―これが一と二を導く根本の信条である―いかなる権威にも囚われない。アナキズムを「無政府主義」って訳すから日本では誤解されやすいけど、「権威の支配を拒み自律的相互扶助を推進」するアナキズムはまさにクラスの活動そのものである。

映画「CRASS:ゼア・イズ・ノー・オーソリティ・バット・ユアセルフ」はそんなクラスの活動に肉迫したドキュメンタリー。映画ではそうした社会性だけでなく、彼らの曲やアートワークの映像もたくさん挿入される。刺激的挑発的扇情的メッセージとアートワークには時代の空気を切り取る鋭敏なセンスが遺憾なく発揮されている。そしてメッセージを速射しながら衝動を暴発させたような曲がとにかくカッコ良い。このシンプルさ、ストレートさは“パンク”の専売特許だね。

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バンド活動時の逸話で可笑しかったのは、ソ連KGBが本気でコンタクトしてきたという冗談のような本当の話。保守党サッチャー政権下の当時、クラスがいかに政治的に危険視され、また影響力を持っていたかを物語ってる(ただしクラス自身は右でも左でもない)。それとデヴィッド・ベッカムがクラスのロゴをプリントしたTシャツを着ているのが雑誌に掲載されていたって話。たぶんベッカム(あるいは彼のスタイリスト)はクラスの活動方針にも音楽にも興味は無く、ただファッションとして彼らのロゴを気に入ったのだろうけど、もちろんその使用料はオリジナルをデザインしたジー・ヴァウチャーには支払われていない。それを受けて彼らは逆に、「クラスのTシャツを着たベッカムの写真をプリントしたTシャツ」を作って売ろうとした(わざと裁判沙汰を引き起こそうとした)って話には笑った。

現在の彼らを捉えたシーンでは、今尚、ダイヤルハウスでストイックな生活している中心人物ペニー・リンボーと、そこを離れ今は地元の仲間たちとパブでビールを飲みながらテレビのサッカー観戦に興じるバンドの元ヴォーカル、スティーヴ・イグノラントが対照的だ。この映画の見所は様々だけど、オレはここに最も注目した。イグノラントは「メンバーであったことは誇りだ」と言いつつ、現実にはそこを離れることになった。リンボーは単なるエリート夢想家なのか。ダイヤルハウスは理想郷に過ぎないのか。そう言えば…90年代にポスト・ロック・バンドとして注目を集め、近年再結成をしたカナダのインスト・バンド、ゴッド・スピードユー・ブラック・エンペラーに直接取材したとき、彼らの自律性や非商業主義、共同体的バンド活動はクラスに影響を受けているのでは?と質問したら、「その通りだ」と答えていたっけ。そのことを思い出しながら、ゴッド・スピード~で特徴的なマーチング・ドラムも実はクラスの影響を受けたものだったのか、と合点。彼らの蒔いた種が連綿と現代に受け継がれこうして開花したのだと感じた。さらに意外なことに…あのビョークがシュガー・キューブス以前に在籍していたアイルランドアヴァンギャルド・バンドK.U.K.L.も実はクラスのレーベルからアルバムをリリースしていたのだった。クラスとは音楽スタイルこそ違えどゴッド・スピード~にしてもビョークにしてもオレにとってはパンクなのである。「パンクは音楽のジャンルやスタイルではなく姿勢や手法」とは、つまりこういうことを言っている。

一方、劇場では鋲が打たれた革ジャンにチェーンをジャラジャラさせたファッションに身を包んだ“かつてのパンクス(?)”らしき人を何人か見かけた。「何だかなぁ」って気がしたよ。それと、劇場で売られていた映画のポスター―クラスのロゴやメッセージをかたどったもの―がカッコ良くて一瞬買おうかと思ったのだけれど、支払った金はいったい誰のポケットに入るのか考えて思いとどまった(苦笑)。クラスが投げかけた問題意識は今現在も十分通用する、ってか世界中がグローバリゼーションの波に飲み込まれていく今だからこそ見直す必要がある。

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