PIXIES:アルバム『Indie Cindy』&ライヴ@サマソニ2014・レビュー(前編)

八月某日

 

実に14年ぶりにサマー・ソニックに行ってきた。何年ぶりというよりも、富士急ハイランドで開催された第一回サマー・ソニック(2000年)以来である。幕張に移ってからはもちろん初めてだし、夏フェス自体、最後に行ったのが10年近く前(いつだったか正確に覚えてない)のフジ・ロック以来だ。もう歳も歳だし、若者たちに交じってフェスってのは、はっきり言って体力的にシンドイ。それよりなにより日本の大規模フェスの運営方針と料金設定に対する不満と疑問が募って行くのをやめたのだった。今回のサマソニについても見方はまったく変わってない。そして実際に行ってみたら、ホントに体力的にシンドくて、フェス会場や運営は思ったとおりツマラナくて、まさにオレが倦厭した理由そのまんまで逆に笑えたくらい。なのに、あえて高額チケットを買い、倦厭していたフェスへと出かけて行ったのは、兎にも角にも「ピクシーズのライヴをどうしても見たい!」、そのことに尽きる。それほどまでにオレにとってこのバンドはかけがえのないものなのである。

 

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 ピクシーズのユニークさを挙げたらきりがない。キラキラと輝く甘いメロディと、混沌としたノイズにねじれたサウンドという相反する要素の融合。余韻を残さず全てを置き去りにしていく疾走感。サーフ・ミュージックと中南米のエキゾチシズム。押韻を多用しながらスポークン調で歌うヴォーカル。そしてなんと言っても、あのカート・コバーンがその作曲法を「パクった」と公言もした、ヴァース・コーラス・ヴァースとクワイエット&ラウドの振幅の激しさだろう。クワイエットな部分はバラードのように優しくありながら、ラウドな部分の凶暴さ、性急さはヘヴィ・メタルやハードコア・パンクをも凌駕する。まるでストゥージーズがビーチ・ボーイズをプレイしてるようだ。歌詞は意味深長。動物、宇宙、UFO、背徳、理由なき衝動・・・。そこから生まれる超現実的感覚。そのギャップが人間の二面性や深層心理を覗き込んでいるようでもあり、世界の冷徹な不条理を表現しているようでもあり、理性を逸脱した狂気を感じさせてなんともおどろおどろしい。ポップなのに奇妙奇怪。

その後に続くニルヴァーナスマッシング・パンプキンズレディオヘッドグリーン・デイウィーザー…etcといったオルタナ・ロックの雛形を作ったのがピクシーズであったことも間違いない。それらのバンドとあえて比較するなら・・・まさにピクシーズをパクった上記ニルヴァーナレディオヘッド、あるいはフレイミング・リップスはいい線行ってるとも思えるが、ニルヴァーナレディオヘッドも孤独、寂しさ、哀しさ、喪失といった(単純な)ネガティヴ感情丸出しで陰鬱に過ぎる。フレイミング・リップスは実験色が前面に出過ぎ(初期の方が自然かつシンプルで良かった)。それらと比べても、ピクシーズの簡潔さポップ感ははるかにクールだ。ポップ・ミュージックという枠の中でこれほど実験的で豊かな音楽性を持っているのは他にビートルズくらいしか思いつかない。

さらに言うと、オルタナが生まれる前のアメリカのインディー・シーンで目立っていたのは、ニューヨークのアンダーグラウンド、ワシントンDCのハードコア・パンク、シアトルのグランジくらい。それ以外は単体のレーベルか、クラブやスタジオを中心に集まる顔なじみのコミュニティに過ぎない。ピクシーズはボストン出身と言われているけど、結成時にボストンにいただけで、その後メンバーは散り散りに住んでいるので、いずれのシーンにも属さなかった。それどころか、作品をリリースしていた(そして今回の新作も)のは英国の名門インディー・レーベル、4ADである。レーベルには当時、コクトー・ツィンズやスローイング・ミュージズ、ラッシュ(Lushね)などが所属していて耽美的浮遊感とでも言うようなカラーが見られたけど、ピクシーズがそこに当てはまるとは思えず、オレには異色に映っていた(今でこそ4ADピクシーズらしいとも思えるけど)。そんな彼らは本国よりむしろ英国で絶賛され知名度を上げていく。と、彼らはあらゆる点で際立った独自性を見せていたのである。

1991年の解散から13年、2004年の再結成には歓喜した。彼らの演奏をついに生で聞くことができる。もちろん来日公演は見に行ったし、期待通りの素晴らしさだった。バンドが活動していた時期には録音作品のみで彼らの音楽を堪能し、没頭し、酔いしれていたわけだが、彼らが最高のライヴ・バンドであることも確認できた。が、欲を言えば、『Trompe Le Monde』(1991年)を最後に新曲を発表していない(厳密に言うと2004年の再結成時に一時的な活動として「Women of War」と「Bam Thwok」の2曲だけリリースしている)点にあった。オレを虜にしたあのマジックはもう作られないのか、あの興奮は過去の作品にしか存在しないのか、といった寂しさも一方にあったのだ。

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ピクシーズが新曲を書いているというニュースが飛び込んできたのは昨年の春のことである。プロデューサーはセカンド・アルバムからずっと彼らのアルバムを手がけてきたギル・ノートン。マジか!? 遂に!? 遂に!? と高ぶる気持ちを抑えきれない。しかし、「あれ、待てよ。同じような期待感はマイブラの時にも経験したぞ。あの期待はあっけなく裏切られたじゃないか」という不安もあった。そんなことはまさかピクシーズに限ってないよな? いや、分からん。

そうした不安と期待が入り混じった中、昨年夏、実に22年ぶりの新曲「Bagboy」がネット上に公開される。うんっ! 耳に付いて離れないリフといかにもピクシーズっぽいスポークン調のヴォーカルに甘いコーラス。そこにフランシスの絶叫がかぶさってなかなか良い。けど、正直ちょっともの足りない。彼らの数ある名曲カタログの中では秀作クラス。ここではまだ完全に信用できない(もともと疑り深いオレ:苦笑)。しかも、この新作発表と時期を同じくしてキム・ディール脱退のニュースが伝わってきたのだ。「え? このタイミングで?」という驚きと同時に「案の定、やはり・・・」という感も抱く。というのは、かつてフランシスとディールの仲がこじれて解散に至ったこと、再結成後も彼らの関係は完全に修復されたことがないということ、それらは周知の事実だからである。いずれにせよバンドの先行きに暗雲が立ち込める。

期待より不安が膨らんでいく中、新作として正式にリリースされた『EP1』には重い一撃を食らった。先行発表された曲はいわば軽いジャブにすぎなかった。焦燥感を煽る性急なギター・リフの行進とフリーキーなギター・ノイズから一転、爽快なメロディが奏でられる「What Goes Boom」。カントリー風メロディのイントロから不穏な空気を漂わせた三拍子のスポークン調ヴォーカルに転調、さらにそこからほろ苦いメロディへと流れる「Indie Cindy」のひねくれ具合!! 幻想的で繊細なフランシスの声によるサイファイ・ドリーム・ポップ、「Andro Queen」。ディール抜きでもやはりピクシーズはただ者ではなかった。

その後も次々と発表されるシングルのクォリティは素晴らしい。耳に付くギター・リフとカウベルと共にフランシスの咆哮が乱れ飛ぶ「Blue Eyed Hexe」。不穏なリフとコーラスで焦燥感を煽る「Magdalena」。アコギのカッティングでリズミカルに奏でられるキャンディー・ポップ「Greens and Blues」。「Ring the Bell」は西海岸サーフ・ミュージックを髣髴させるキラキラと輝くメロディとサウンドの中、一瞬だけコードがマイナーに流れる。このひねくれ方こそまさにピクシーズの象徴だ。

 

これらを『EP1』~『EP3』として先行リリースした後、今年4月、アルバムが発表された。実に23年ぶりのリリースとなる。収録されている曲はすべて『EP』シリーズに収録されたものである(次々にシングルがリリースされる情況から必ずアルバムも発表されるだろうと予測していた)が、アルバムとしてまとめられたことは、バンド復活の記念碑となるだろう。ファンにとってもこれらのシングルすべてを一枚で聞くことができるのは嬉しい。

一方、アルバムに対する反応は賛否入り乱れてるようだ。半分はオレと同様、大方の点(マイナス面については後述)で賞賛しているけど、半分は「昔のピクシーズとはぜんぜん違う」、「オルタナの先鋭さ新しさがない」なんて否定的意見を目にする。ひどいのになると「空虚なオルタナ。過去の使いまわし」なんて貶している人もいたなぁ(書店で売られている立派な音楽誌のレビューの中で見た)。そのあまりにも的外れな評には呆れちまったよ・・・。ピクシーズが「空虚なオルタナ」なわけねぇじゃん。使い回すも何も、彼らがオルタナの張本人なんだからさ!! ピクシーズをパクッた奴らがオルタナを形骸化させたんだろ。貶している人たちは「尖っていること=いい音楽」とでも勘違いしてるのかしら? 

ま、以前の作品と一連の新曲を客観的に比べば・・・たしかに彼らの大きな魅力のひとつであった「全てを置き去りにしていく疾走感」(そうした曲は極めて短く、ヴァースからコーラスで突然終わり、再びコーラスに戻ることがない。その潔さがカッコよかったんだけどね)は見られない。またガレージっぽい荒々しいサウンドはクリアに整えられている。決定的なのはシンプルながらも主旋律以上に耳に残るディールによるベース・ラインが聞こえてこないことだろう。当然、過去の作品とは多少違っている。だからと言ってピクシーズらしさが完全に失われてしまったわけではない。そもそも『Trompe Le Monde』と『Come On Pilgrim』はまったく違ってたし、『Surfer Rosa』と『Bossanova』だって微妙に違ってたじゃねぇか。

ディールの不在ゆえにバンドから奇跡的化学反応は失われたと考えるのは早急に過ぎる。すでに述べたように、新曲にはそれだけじゃないピクシーズらしい特徴が随所で聞ける。沈鬱で不穏なメロディの一方で、甘いメロディはとことん甘く、きらびやかにまぶしい光を放っている。その振幅の大きさはやはりピクシーズ独特のもので、彼らが「シュール」と呼ばれる所以でもある。フランシスの歌詞は相変わらず超現実的だし、スポークン調のヴォーカルは洗練されつつも雄叫びを忘れてはいない。ジョーイ・サンチャゴのギターの変態ぶりにも磨きがかかった。特にビートを重視したと思われるソングライティングに彼らの進化が著しい。

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彼らはもうカレッジ・チャートの中だけでウケて舞い上がるガキじゃない。思春期の青臭い衝動や鬱憤を歌うわけじゃないし、エネルギーだけでゴリ押ししたりもし ない。そういうのを聞きたかったら、今や巷にいくらでも転がってる似非オルタナ・バンドを選り取り見取りお好きにどうぞ、ってなもんだ。彼らの音楽的成熟 は歳をとったオレにほどよく効く音楽的ツボを絶妙に刺激する。オレは決してピクシーズを懐メロとしてなんて聞かない。昔も今も最高にポップでシュールでクールなバンドだ。その証拠に新作を聞いているだけで、こんなにも心躍らせ興奮できるのだから。

 

PIXIES:アルバム『Indie Cindy』&ライヴ@サマソニ2014・レビュー(後編)に続く・・・